会話では、わかりやすさと正しさ、どっちが大事? 【補足】

先日の記事「わかりやすさと正しさ、どっちが大事?」の、
「伝える」ということにおいての補足になります。

こんだけ書いたのにまだ書くことあります!?
と、自分でも思うけどありました。
やばいこれは合計10000字近くなってしまうのではないか。
そんなに長い文章書いたことないんだけど。
また人生初の経験をしてしまったな。フフフ。

ツイッターの相互さんが、ありがたいことにこの長文を読んでくださって。
さらにありがたいことに、わかると言ってくださって。
まったく別業種の方なのですけど、どんなジャンルにも共通点ってあるもんなんだなあと思いましたね。
それで、さらにとてもとてもとても!!!
そりゃそうだ!!という、的確なコメントもいただいたので、
その件について述べておこうと思います。

補足っていうかもはやこっちが本質なんじゃね?っていう。
「伝える」ということにおいて。

それは、

興味や好感があれば、どれだけ長くてもその人の話を聞きたいと思える

ということです。

つまり、
どうやったら誰かに自分の話を聞いてもらえるか、
どうやったら伝えたいことを受け取りたいと思ってもらえるか、
それって、

相手を好きかどうか

これに尽きるのではないのか?
ということです。

これって結構身もふたもない話だと思うけど、
でも真理だと思いませんか。

好きな人・尊敬する人・興味を持っている人の話だったら、
6000字だろうが60000字だろうが600ページの本になろうが、
読みたい!!って思っちゃうと思うんですよね。私は思う。

例えば、校長先生の話は興味がないけど、
小島秀夫監督校長先生の話だったら、もうゲーマー垂涎ものだと思うんですよ。
10分でも100分でも1日中でも2Daysでもいいから話してくれ!!って思うじゃん。
でも、ゲームに興味ない人だと、それこそさっさと帰りたいと思うと思うんですよ。
その聞き手自身の、聞きたい人と聞きたくない人の違いって、
興味があるかないかでしかなくないですか?

なので、先日の私の長ったらしいブログを読んでくださった方は、
「0・興味なし・ニュートラル・無の地点」から、
メモリたった1つ分だけでも、興味を持ってくださってると思うんですよ。
記事の内容、もしくは記事を書いたり作品を作る私に対して。
本当に有りがたいです。
「ありがたい」って「有り難い」って書くけど、
ほんといつもあるというわけではない貴重なことなんですよね。
当たり前だと思ってることすら当たり前ではないこと、マジで病気になってわかったもんな。
自分の意思でトイレに行けること、すごい開放感なんだなって思ったもん笑

でね。

そうなってくるとですよ。

良いものを作るとか伝えたいことがあるとかってなった時に、
それを広く様々な人に伝えたいとなった時に、
その「伝える」という点において、
伝えたいものの内容自体は、重要じゃないってことになってきちゃったりせんか???

「伝える」のに必要なのは、「わかりやすさ」と「興味」。

興味は、好奇心とも言えるかもしれませんね。
「それ何?」「おもしろそう」「ちょっと見てみたいかも」「聞いてみようかな」
という、0地点から好意側にほんの少しでも傾くための、最初の小さな一歩だと思うんです。

だからこそ、先日の記事内で例に挙げた、
「正しいけどわかりにくくて興味が持てないB案」よりも、
「間違いが含まれていてもわかりやすくておもしろそうなA案」の方が、
一般の対象に受け入れられやすいんじゃないでしょうか。

興味の薄い分野とか、全然知らない分野の話って、
そもそも何から手をつけて良いか、何から入っていけば良いかすらわからないじゃないですか。
だから、最初に何でも良いから「きっかけ」が絶対に必要なんですよね。
それが「興味」ひいては「好き」だと思うことだと思うんですよ。

だって嫌いな奴の話なんてハナから聞く気持てなくね!?
嫌いな人の話1分でも聞いてみようと思ったらそこにはもうちょっと興味持っちゃってるよ!!
まあそういうパターンもあるか。笑
炎上商法とか、噂話とかもそっちなのかなあ。
でもそれって受け手側にマイナスダメージを与えることを前提としてるじゃん。
本当に長期的に興味持ってもらいたい時って、やっぱそれじゃ効果的だとは思えないんだよね。
一時的には効果あるかもしれんけど。
あと規模にもよるかもしれんけど。

ってなると、好きになってもらえるような入り口を用意しないといけないんだよね。

漫画でいうと、キャラを好きになってもらったり設定やストーリーを好きになってもらったり。
全部が好きじゃなくてもここだけ好き、っていうパターンもあるもんね。
SNSとかYoutuberとかで人気になる人って、
話の内容とか動画の内容とかの面白さも含めて、
作り手の人物そのものも好きになるっていう時代なのかなあと思ったりもします。
いわゆる「推し」ですね。
好きだから見たい・知りたい・応援したいって思うわけだし。
人でも、ジャンルでも、なんでもそうだけど。
「その人がこう言ってるから信じる」みたいなことって、あるじゃないですか。
今に始まったことでもないでしょうけどね、そういうの。

だから、もちろん良い内容の話をこそ伝えたいというのは大事なんだけど、
そもそも話を聞いてもらうためには、
その良さにいかに興味持ってもらえるか、好きになってもらえるか、
ということにも力を注ぐ必要があるってことなんでしょうね。

でもさ。

いやここでまたなんかあんのかいと思われたあなた。
あります。

好きになってもらう努力をして無理に好きになってもらうことに、そもそも意味ある?

みたいな。

ありのままを好きになってくれる人じゃないと続かなくない?

みたいな。

ねえ。

わかります。

「頑張って」好きになってもらったら、頑張り続けないと飽きられるんじゃないかとか、
頑張らない「そのまま」を好きになってもらうのが一番良いんじゃないかとか。

それはそう。
それが一番理想。
そう思います。

でもそれって「理想」なんすよ。
ほんとそういう人が増えてくれたらもう最高すぎる。
でもね。

そもそも「興味のない人に向けて何かを伝える」っていう前提があるのよ。

興味のないことって、ありのままだからこそ興味ないんじゃないですか!?

そんなことを考えてみたんですよ。
どうでしょう。
だから頑張る必要があるんですよ。
どうでしょう。

ね。

例えば、人道的に外れたことは絶対にしない、という安心と信頼感でプラスに置いてもらうとか。
例えば、毎日定期的に面白いライブ配信をしてくれる、という安定と面白さで興味を引き続けるとか。

もう考えたらすごく大変なんじゃないかと思えてきちゃうし、
ほんと努力するのってめんどくさいし、笑
それこそそこまでして好きになってもらう必要ある?になってきちゃうし。
めんどくさいってほんとよろしくないな!笑
でも興味ないこと努力するのめんどくさいじゃんか〜

そう!興味ないことって頑張れなくないですか!?
それも一緒なのかなあってちょっと思うんだよね。
だから、なんとしてでも頑張りたいことがある時って、
なんかどうにかしてうまいこと自分が興味持てそうな事柄を探すと、
結構楽しくなってきて頑張れるようになったりします。

好きの力ってすごいよなあ。
絵を描くのとかだって、好きだから続いてるだけだし。
そりゃ辛い時も山ほどあるんですよ。当然。
でも、辛い時に投げるか続けるかって、結局好きかどうかで決まるじゃないですか。
好きじゃなくても続くことがあったらそれはそれで才能だと思うんだけどね。
好きだからって無理し続けるのが良いとも思わんし。
しかしもうなんかちゃんとした論理的な理由とかじゃなくて、
ただ好きであるってことだけが必要ってのも面白いですよね。

そんなわけで、補足のお話でした。
また飽きずに読んでくださった方、本当にありがとう!
昨日の記事に追記とかもしちゃってるし、
今日の分も合わせて文字数カウントしたらね、なんとね、
10000字行ってた。

それにしても。

どうやったら頑張らずに興味持ってもらえるかなあ〜!

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